産着と衣育についての語らい
着物や産着に込められたしきたりや、古の知恵などについて、
ぜひご紹介させてください。
話は下手ですが、産着のいわれや日本の着物にまつわる、
しつけ教育について、仕立て職人として見聞き学んだものを
未来の子供たちへ、未来の社会へと、
少しでも、語り継げればと考えています。
もちろん私どももいろいろな方とご意見をいただき、また教えを
いただき学ばせていただければ幸いです。
メールを確認後、あらためて手前どもからご連絡させていただきます。
内田勝己・勝三が考える衣育とは・・・
「衣、食、住」は人が生きていくうえに切り離す事のできない必要不可欠なものです。
「食」では家族揃って食べる事によって、箸の上げ下ろしに始まり、
食べ物の食べ方を子供に教え基本の教育ができるものです。
「住」では三世代が同居することによって、年寄りから孫へ、しきたり等未来永劫に
伝えていく事柄を教育していく事が出来るのです。
「衣」においても、TPOを考えた衣服を選び、だらし無くならないようにする事を
年配者から教育して欲しいと思います。
先日30歳~60歳男女90名の方に衣育についてアンケートをお願いしたところ、
躾という言葉が着物の仕付けからきている事を知っている人は20%しか
いらっしゃいませんでした。衿を正す、折り目正しく、袖振り合うも多生の縁等、
衣類から教えを受ける事が多くあります。今現在「衣」「食」「住」のすべてが
おろそかになった事が、家族のコミュニケーションを崩壊させ、家族内親子の
事件が起こるのだと考えます。
日本人らしい習慣、ふるまい、精神を、衣育・食育・住育の形で、
語り伝えていくことが大事な家庭のコミュニケーションではないでしょうか?
そこで、三世帯同居が難しい今現在、お年寄りが若夫婦のサポーターとして、
お孫さまの誕生をきっかけに、子どもの発育期に長年の経験から得た事を
その時々に語らい投げかけて頂ければ、お孫さまは人生の荒波を
乗り切っていけると考えますが如何でしょうか?
私どもは「衣」に携わっておりますので、まずは生まれて初めて着る「産着」に
家族中の願い(無事に丈夫に育って欲しい) を込めて
お作りさせて頂いております。
真和 内田勝己 勝三
躾(しつけ)の由来と意味
(元京都大学・京都女子大学教授・岡本夏木先生のお話より)
今回は、躾(しつけ)という言葉について考察してみます。
ご存知かもしれませんが、「躾」は、中国から伝えられた漢字ではなく、
日本で考案された漢字であり、いわゆる「国字」と呼ばれるものです。
峠、凪(なぎ)、働、畑、辻などもこれらの仲間だと言われています。
この「躾」という漢字を分解すると、「身」と「美」になり、「身だしなみを
美しくする」と解釈できます。「なるほど、よくできたとても素晴らしい漢字だ」と、
思われるかもしれませんね。実際、文化人などがそういう感想を書物に
書いているのを目にしたことがあります。
岡本夏木先生(元京都大学・京都女子大学教授)は、幼児の言葉の発達の
研究者として知られています。ご高齢になられましたが、今なお先生の著作の
数々はいささかも説得力を失っておらず、言葉の発達に関心をもつ
多くの人々に読まれています。
その岡本先生の著作に、「しつけ」について書かれている興味深い文章が
ありました。「しつけ」という言葉は、もともと「着物を仕付ける」ということに
結びついて成り立ってきた言葉であることを受け、「しつけ」という言葉の本質に
ついて言及されたものでした。幼児や小学生をもつおかあさん方に参考に
していただける話だと思いますので、ご紹介してみましょう。
先生は、「『躾』という字がもたらす意味よりも、この『着物の仕付け』を背景とする
意味のほうが、子どもをしつける過程の本質をよく表しているのではないか」と
述べておられます。ご存知のように、「仕付け」とは、着物の形が整うよう、
仮に縫いつけておくことを言いますが、そこで大切なことは、着物がやがて
縫いあがると、仕付けの糸がはずされるということです。着物の完成をもって、
もはや仕付けの糸はそこにあってはいけないものになるのです。
以下は、岡本先生の著述からの引用です。
五歳から七歳の子どもたちは、いよいよしつけ糸を外し始める年齢にあたります。
それまでは親が外側から枠組みを与えて、子どもに行為や生活習慣を
形作らせていたのですが、いよいよその枠をはずして、子どもが自分の力で
自らの行為や生活習慣を生み出しはじめる時期に入っていきます。
しつけ糸をはずすことは、いうまでもなく、子どもを本人の自律にゆだねることです。
しつけとは、もともと自律に向けてのしつけなのです。外からの強調によって
社会のきまりをあてがうことよりも、むしろそうした外的強制をとりはずすことを
めざすものです。しつけが不要になるようにしつける、といってよいかもしれません。